授業者の影響

明日から始まる高校での新学期の授業準備をしながら、いままでの「教え子」のことを思い浮かべてしまいました。「教え子」と言っても、週1回だけの非常勤なので、こちらが勝手に「教え子」だなんて不遜にも思っているだけなのですが…

高校で生命倫理に関わる授業をさせてもらえることになって、もっとも参考にしたのが松原洋子・小泉義之編『生命の臨界―争点としての生命』や川本隆史編『ケアの社会倫理学―医療・看護・介護・教育をつなぐ (有斐閣選書)』所収の大谷いづみ氏の論考や対談でした。

なかでも授業者の影響力については、深く考えさせられました。


多感な子どもたちを前にして、「生」や「死」に関わる問題を授業で扱うからこそ、授業者の影響力、教室という空間に発生する暴力的な磁場に、気をつけないといけない。
大谷氏が「感動の渦に満たされた教室で、子ども自身が、ましてや授業者が、取り残されたその感情を「間違ったもの」と評価する危険性」と呼ぶものに敏感にならないといけない。

けれどもその一方で、先日読んだ『豚のPちゃんと32人の小学生―命の授業900日』にも書かれていたことなのですが、授業者自身が思っているほど、子どもたちは、授業の影響を受けないのかもしれない。

ただ、子どもたちは教師などより数段したたかですから、感動的な授業構成に自己陶酔している教師にあわせて涙しながらも、それ自体をTVドラマの如くちゃっかり消費する健全さを持ち合わせてもいます。
大谷いづみ「「問い」を育む――「生と死」の授業から(聞き手 松原洋子・小泉義之)」松原・小泉編『生命の臨界』人文書院、2005年、140頁

学部4年生のときに、教育実習でお世話になった中学校の先生の言葉も記憶に残っています。その先生が仰ったのは、授業の影響力、教師の影響力を期待するなんておこがましい、ということ。
毎年、何十人、あるいは200人以上に教えても、自分の授業に影響を受けて進路を決めるような生徒は、1人いるかどうか。「生徒に影響を与える」ことを夢見て教師になっても失望するだけだ、と。

きっと、その先生特有の表現だったとは思うのですが、だからこそ、自分の授業を記憶に残してくれる、自分の授業に影響を受けたと言ってくれる生徒たちのことを大切にしないといけない。だからこそ、「どうでもいいや」とならずに、真剣に授業に臨まねばならない。「授業者の影響力」という結果を期待せずに。その先生の言葉を僕自身は、このような意味として聞きました。
授業者の思いがわかるからこそ、自分自身が「生徒」だった頃を思い出して、影響を受けたと思う先生のことは、いつまでも忘れないでいようと思うわけです。

新年度は、どんな生徒たちが待っているのか。
とても楽しみであり、緊張する授業前日なのでした。