フジテレビ「サキヨミLIVE」について

2009年5月17日夜のフジテレビ「サキヨミLIVE」の「アスヨミ」コーナーで、「臓器移植法」とどう向き合うのか、「小さな命 どう救う? “脳死”に揺れる家族」という特集がありました。
長期脳死」に関して取り上げられていたので、興味深く見たのですが、残念と思う部分も多かったので、少しコメントを。

この番組では2つの家族が登場しました。
まず、心臓移植でしか助からないと言われ海外で心臓移植を受けたお子さんとその家族。
それから、8年前に「脳死」と診断されながら生き続けているお子さんとその家族。

放送で心に響くご家族の言葉はいくつもあったのですが、ここでは、僕が興味深く思った話の筋だけの部分だけを。

現行法では15歳未満が脳死からの臓器提供を意思表示することは認められていない。
けれども、体の小さな子どもが心臓移植を受けるためには、その大きさにあった臓器が必要になる。つまり、子どもが臓器移植を受けるには、子どもからの臓器提供が必要ということになる。とくに「心臓」の移植をするには、「脳死」の子どもからの臓器提供が必要になる。

その一方で、子どもの「脳死」というのは難しい。
一般的に、「脳死」になったら多くは数日以内に心臓が止まると言われている。だから、「脳死は人の死」でもいいのではないか、と言われる。
けれども、「脳死」と診断された後、8年も生き続けている(心臓が動き続けている)子どもがいる。
これは、どういうことなのか?
子どもの場合は、「脳死」になっても1ヶ月以上、その状態が続く(心臓が動き続ける)「長期脳死」という状態が20%近くあるという。そうだとすれば、「脳死」になっても「死んだ」とは言えないのではないか。

そこで、「臓器移植法改正」はどうするのか、ということになります。

興味深かったのは、若手の人気男性タレント(でいいかな?)のコメントです。
この2つの家族の映像をみて、すぐには言葉が出てきませんでした。わずかの時間ですが、ちょっと言いよどむような、この「間」が、まず、興味深かったです。
その上で「医療は進歩するものなので、それに対応できるような体制を」という感じのコメントでした。このコメントも、とても興味深かったです。

まず「間」について。
彼は事前に映像を見ていて、この「間」も演出されたものだったのかもしれません。けれども、これまで「脳死」になったら、すぐに心臓も止まる。だから、「脳死は人の死」として臓器提供してもらえれば、移植を待つ別の子どもが助かる、と言われていたわけです。でも、8年も生き続ける子どもを(映像とは言え)目の当たりにすれば、生き続ける可能性のある子どもから臓器を摘出していいのか、と一瞬でも考える、迷うのではないでしょうか。だから、こうした「間」があることは、とても大切なのだと思います。

そして、「医療の進歩」とそれへの対応というコメントについて。
普通は「移植」という医療の進歩が出来るように、と受け取るのかもしれませんが、僕は「脳死」をめぐる医療の進歩という側面も含み持つコメントだと受け取りました。
移植医療という技術もそうかもしれませんが、脳死についても、研究が進んでいてしかるべきです。少しでも「脳死」にならないように。「脳死」になっても、何とかできるように。そして、そもそも「脳死」とは、どのような状態なのか、「脳死」になったとき人の体はどうなっているのか。そうした研究が進んでいけば、現在の「脳死」についての見方、考え方が古いものになるのかもしれません。

この番組で放映された映像をみて、長期脳死のお子さんと8年に渡って生きてきたご家族を前にして、「あなたのお子さんは“脳死”なのだから本当は死んでいるのです」とは言えないと思います。それは、移植を待つお子さんを持つご家族に「移植を諦めてください」と言えないのと同様です。

そこで「改正案」について、です。
男性アナウンサーが個人の意見としながらも、「改正案」A案を支持する旨の発言をし、若手男性タレントの後に発言した元NHKアナウンサーの男性コメンテーターと、経済を得意とする女性評論家も、それを後押しするコメントをしました。A案なら家族に拒否する権利があるから、そのような拒否権があるなら、より「自由」を認める方がいい、そのようなコメントでした。
たしかにA案は、「一律に脳死は人の死」と規定した上で、臓器提供を拒否する家族には、その拒否権を認めるというものです。そして臓器提供の意思表示の年齢制限を撤廃する。さらに本人の意思表示がなかった場合には、家族による意思表示で、臓器提供できるようにする、というものです。

長期脳死」という事例が示しているのは、何よりも「脳死は人の死」ということに対する疑問です。
とくに子どもに多い「長期脳死」ならば、子どもの「脳死」には慎重にならざるを得ないと思うのですが、A案はそこを区別せずに、「一律に」決めてしまう。そこがまず問題です。
もしA案がそのまま可決すれば、映像に出てきた「長期脳死」のお子さんは、「死んでいる」ということになるのです。A案が認めているとされる「拒否権」は、あくまでも「臓器提供」に関するものなのです。

さらに、これまで日本には、「人の死」について明確に定義した法律は存在していません。これは、90年代までの脳死臓器移植論議では、必ずと言っていいほど触れられた点です。
少なくとも「人の死」については医師が判断するということしか、規定されていません。臓器移植法でも、「死体」のなかに臓器提供を希望した「脳死した者の身体」を含めるという規定しかありません。どこにも「脳死は人の死」だとは書かれていないのです。
A案は、こうした「人の死」の定義を、「臓器移植法」という法律で行おうとするものなのです。その「大きな変化」に気づく必要があるように思います。

1997年の「臓器移植法」成立までの「脳死臓器移植論議」を研究対象としてきた者としては、A案による修正は、これまでの議論の蓄積を全て無視するような乱暴なものです。「子どもの臓器移植へ扉を開く」というだけでA案を支持する論調が広まるのは、怖いところです。
サキヨミでのドキュメント映像の部分は、それなりによく出来ていたのに、その後のスタジオでのコメントが残念でした。もちろん、最後により慎重な議論が望まれるというコメントもありましたが…

同じフジテレビの番組で、同じように「移植を求める子どもとその家族」と「長期脳死の子どもとその家族」という構成でつくられたものでも(長期脳死のお子さんと家族に関しては、同じ家族を取り上げている)、ニュースJAPANの「時代のカルテ」として2009年5月6日に放送されたものの方が、思慮深かったように思います。