「脳死」をめぐる議論の整理

臓器移植法改正」論議で、ようやく(?)大きな論点となってきたのが「脳死は人の死か?」というものではないでしょうか。
この「脳死」をめぐる議論を簡単に整理しておきたいと思います。


まず「脳死状態」とは、どのような「状態」なのか、です。
簡単に言えば、「脳の機能が失われてしまっているが、心臓は動き続けている状態」です。「臓器移植法」にある文言を使えば、「脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止」した状態ということになります(第6条2項)。
脳は大脳・小脳・脳幹と大きく3つの部分にわけられますが、その全ての機能=はたらきが失われた状態ということです。さらに、「不可逆的」というわけで、失われた機能は二度と元には戻らない、ということになります。*1
脳死状態とは、このように定義されるわけです。

この「脳死状態」になった人は、生きているのか、死んでいるのか。脳の機能は失われているけれども、心臓は動いているので、まず、ここが難しいわけです。
ここで、「脳死状態になった人は、死んでいる」と考えることが、「脳死は人の死」と考えるということになります。

すると、「なぜ、脳死状態になったら、死んだといえるのか?」という理由が気になるわけです。
この理由が正しいのかどうかをめぐって、議論があるのです。

たとえば、「脳死状態になったら、やがて心臓は止まるのだから」ということが理由だとしましょう。*2
そのような考え方に対して、脳死状態になっているのに1ヶ月以上も心臓が動き続けている患者さんの存在は、どう考えればいいのでしょうか。
屁理屈っぽいですけれど、「やがて心臓が止まる」のなら「死んでいる」と言えるのであれば、われわれはみな、「やがて心臓が止まる」わけです。そうすると、「やがて心臓が止まる」人は、みんな死んでいるということなのか。

あるいは、「脳死状態になったら自発的な呼吸はできなくなる。つまり、人工呼吸器という機械の力がなければ生き続けられない(心臓を動かし続けられない)。だから、脳死状態は死んだと言えるのだ。」と考える場合は、どうでしょうか。「機械の力がなければ生きられない」ことを「死んだ」ことの理由にするのであれば、人工呼吸器を必要とするすべての人は、「死んでいる」のでしょうか。
心臓ペースメーカーが必要な人は、機械の力がなければ生きられないと言えるでしょう。それならば、心臓ペースメーカーを使っている人は、「死んでいる」のでしょうか。

実は、それほど簡単に答えのでる問題ではないのです。
このように、「なぜ、脳死状態になったら、死んだといえるのか?」という理由を深く考えることを、生命倫理やバイオエシックスと呼ばれるような領域の研究者は、続けてきたわけです。

そして、「脳死」をめぐる議論、つまり「なぜ、脳死状態になったら、死んだといえるのか?」という問題には、いくつかの議論水準があります。ざっと列挙すれば、次のような議論があります。

  • 科学:科学的に「脳死は人の死」である/ではない
  • 理論:(哲学や生命倫理学の)理論から考えて「脳死は人の死」である/ではない
  • 臨床:医療従事者の臨床感覚として「脳死は人の死」である/ではない
  • 感情:家族や親しい人の立場からの臨床感覚(感情)として「脳死は人の死」である/ではない
  • 社会的必要性があるので「脳死は人の死」である/ではない

脳死(状態)は人の死」であるかどうかをめぐって、科学的な議論があります。科学的に考えても「脳死(状態)は人の死とは言えない」と主張する研究者もいるのです。

臓器移植法改正案」のうちA案の提出者となっている国会議員は、しきりにWHOなどの国際標準にあわせるということを言っています。けれども、「世界の多くはこう考えているから、日本もそれに合わせる」という理由は、学術的に見れば、とても稚拙なものだと言えるでしょう。

それともう一つ。
現在の「臓器移植法」が1997年6月に成立したときに、「脳死は人の死」だと決着がついたわけではないのです。
1992年に政府が設置した「脳死臨調」は、最終答申を提出しました。そこでは「脳死は人の死」だという主張が述べられていたわけですが、脳死臨調の最終答申は、メンバー全員が一致して出したものではありません。「少数意見」として、「脳死は人の死ではない」とする意見も併記されています。
こうした「少数意見」を無視して、「脳死は人の死」とする「臓器移植法案」が90年代前半から国会に提出されたわけです。だから、1997年の成立直前に法案の修正がなされて、現在のような形になったと言えます。
現在の「臓器移植法」では、脳死状態からの臓器提供の意思表示がある場合だけ、脳死は人の死だと考えるというものです。*3
こうした規定は、アイマイと批判されるかもしれませんが、「脳死は人の死」をめぐって、単純ではない議論が山積していた状態で、「臓器移植法」を成立させるためには、かなりギリギリの修正だったのではないでしょうか。少なくとも、当時から「脳死は人の死」という考え方に反対している日本弁護士連合会なども、現在の「臓器移植法」には、一定程度の評価は与えているのですから。こうしたギリギリの修正を経て成立した「臓器移植法」なのです。

だから、「脳死は人の死」だと一律に決めようとするA案は、改正案ではなくて新法案とさえ言えるわけです。
アメリカでも21世紀になって、「脳死は人の死」という考え方を再検討する機運が高まっています。そうだとすれば、日本の議論は世界最先端なのかもしれないわけです。わざわざ「世界にあわせる」のは「最先端」だったのに「遅れる」ことなのかもしれません。*4

「ラザロ徴候」や「長期脳死」という近年、大きく取り上げられている問題だけではなく、「脳死状態の妊婦の出産」など1990年代に大きく取り上げられた問題も、あります。「脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止した状態」という定義と、死の概念をめぐる問題だけではなく、そもそもこの定義どおりに「脳死判定」できるのか、という問題もあります。

「生命倫理会議」の代表として緊急声明を発表した小松美彦氏は、「脳死反対」という立場を強調されがちですが、脳死と臓器移植の問題について、『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』や『死は共鳴する―脳死・臓器移植の深みへ』などで、もっとも深く議論を展開している研究者の一人でもあります。賛成とか、反対とか、そのような意見の違いは関係なく、まず「脳死と臓器移植」をめぐる研究者の知見が、どこまで進んでいるのかを確かめてもらいたい、そのように思います。

脳死状態の人の命も、「脳死は人の死」をめぐる議論も、まだまだ終わってはいないのです。

*1:参考資料として:臓器移植解説集 5.脳の役割―日本臓器移植ネットワーク

*2:臓器移植解説集 6.脳死と植物状態―日本臓器移植ネットワークでは、「多くは数日以内」に心臓も停止すると説明されています。植物状態の場合は、脳幹の機能が残っているので、心臓は動き続けるということです。

*3:第6条1項で、「死体(脳死した者の身体を含む)」という表現が出てきます。そして第6条2項では、「前項に規定する「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。」と規定されています。

*4:森岡正博生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』でも、1997年に至る日本の脳死論議は世界で最先端だったと評価されています。