TBS「総力報道!THE NEWS」と「見えない死」

昨日5日に、衆議院厚生労働委員会での「臓器移植法改正案」の審議があり、これをもって実質的に審議終了となりました。
5月27日に続き、6月5日の審議は5時間以上に及んだようです。審議の模様は衆議院のインターネット審議中継で見ることが出来ます。
 → http://www.shugiintv.go.jp/jp/video_lib2.php?u_day=20090605から「厚生労働委員会
僕自身、まだ審議の模様を確認していないのですが、2回の審議で合計10時間。この審議プロセスを長いと見るか、短いと見るかは、難しいところです。

そうした国会での審議状況を踏まえて、5日夕方のTBS「総力報道!THE NEWS」で「15歳未満の臓器移植はどうなる…親の思いは」という6分ほどの報道がありました。
 → http://www.tbs.co.jp/souryoku-houdou/


番組では、「脳死」と診断された後も1年以上「生きつづけた」お子さんを持った親御さんと、お子さんの心臓移植をするためにアメリカへの渡航を目指して募金活動を行っている親御さんの映像が流れました。
脳死」と診断された後も1ヶ月以上、子どもの場合には1年以上も心臓が動き続けることもあることが知られています。「長期脳死」(あるいは「慢性脳死」)と呼ばれる状態です。「脳死は人の死」となるならば、こうした「長期脳死」の子どもたちは「生きている」のではなく「死んでいる」ということになるのか。*1
でも、その一方で、こうした「脳死」となった子どもから臓器(とくに心臓)の提供がなければ、(とくに体の小さな)子どもへの心臓移植は出来ないと言われているわけです。

番組では東京医科歯科大学准教授の田中智彦氏のインタビュー映像もありました。*2
そこでは、「長期脳死」のお子さんに「いのち」を感じる親御さんがいるのであれば、われわれは、その「いのち」にかけるのか、脳死の子どもは死んでいるということにかけるのか、そこが問われているというような話をされていました。

こうした二者択一ではないのかもしれませんが、子どもの臓器移植というと、移植を待ち望む子どもと家族、つまりレシピエントサイドが重視されがちですが、その一方には、臓器提供が迫られる子どもと家族がいることを、改めて思い起こさせる番組でした。

長期脳死」となってしまったお子さんを持つ親御さんの声や思いとして、マスメディアに流れるものを見ていると、そこでは、「長期脳死」となった間にも「成長する」ということが言われます。
今回の「総力報道!THE NEWS」で映像が流れた親御さんも、「姿を変えながら生き続けてくれた」というようにわが子のことを語っていました。そして、心臓が停止して、冷たくなって、はじめて「死」というものを感じたということも語っていました。

この映像を見て、言葉を聞いて、改めて中島みちの『見えない死―脳死と臓器移植』での指摘を頭に浮かべました。*3

この本と「見えない死」という言葉は、1980年代から90年代にかけての「脳死論議において、とても大きな意味をもったものだと思います。次のように「脳死とは見えない死である」と述べられています。

 脳死とは、見えない死である。
 医師以外の誰にも、見えない死である。生きているのか、死にかかっているのか、すでに死んでしまっているのか、どんなに見つめても、見えない死である。
    (中略)
 脳死とは、暖かな死である。
 ふだんと変わらず血液が循環しているから、肌は暖かく、筋肉はやわらかである。心臓が死ねば、刻々と身体は、つめたくなり、こわばっていき、誰が触れても、それは死である、とわかる。
    (中略)
 呼吸と心拍の停止が誰にも明らかで、つめたく硬い従来の死は、もう生き返らぬという納得とあきらめを、まわりの人々に与えることができた。しかし、この、見えない死、暖かな死、やわらかな死は、ベッドサイドで見守る者にとって、観念の中の死であって、ひしひしと感じられる死ではない。
(中島みち『新々・見えない死―脳死と臓器移植』17-18頁)

この文章は、いまから20年以上も前のものです。それでも、「見えない死」「暖かな死」という表現は、現在の子どもの「脳死」をめぐる議論でこそ、省みられてもいいように思います。
もちろん、「脳死は人の死ではない」と考えるならば、「見えない<死>」という「死」の言葉が入ることに異論はあるかもしれません。
あるいは、「脳死は人の死である」と考えるならば、「観念の中の死であって、ひしひしと感じられる死ではない」というのは、単なる感傷や感情であって、医学や科学や法律は、感情とは異なるものだ、というのかもしれません。
それでも、この「見えない死」という表現は、「脳死」の本質を突いているようにも思うのです。「長期脳死」のお子さんと共に生きてきた親御さんの言葉を聞いて、その思いを強くしました。

ドナーサイドとレシピエントサイド、双方の親や家族の気持ちを考えると、双方の思いの間で板ばさみのようになり、どのような結論を出していいのかわからなくなります。
子ども本人の意思が確認できないからこその苦悩もあります。「長期脳死」の子ども本人は、どう考え、感じているのか。「移植が必要」といわれた子ども本人は、どう考え、感じているのか。
あるいは、子どもの意思が確認できたとしても、「親」として子どもを思うからこそ、生じる苦悩。*4

生命倫理の研究者に「是か非か」を聞いても、ハッキリと結論を出さないと思われるかもしれません。けれども、問題を深く知れば知るほど、考えれば考えるほど、ハッキリと結論を出せなくなることもあるのではないかと思います。*5

いずれにせよ、「臓器移植法改正案」の審議や採決がどうなるのか、注視していきたいと思います。

*1:なぜ「脳死状態」を「人の死」と言えるのか、その理由は何か、ということを考えるならば、この「長期脳死」の存在は、とても大きな意味を持つものです。「長期脳死」については、5月18日のエントリーで取り上げた「サキヨミ」やニュースJAPANの「時代のカルテ」なでも放映されたことがあります。また、「脳死状態」を「人の死」と考える理由については、「脳死」をめぐる議論の整理で概略を簡単にまとめてあります。

*2:田中智彦氏は、生命倫理会議の連名者にもなっており、政治思想・政治哲学をベースにして医療や生命倫理の問題を研究されている方です。

*3:中島みち氏は、その後、現在の「臓器移植法」が成立する過程を『脳死と臓器移植法 (文春新書)』にまとめています。個人的には、数々の著作からとても多くのことを学ばせてもらったジャーナリストです。『見えない死』は1985年に初版が刊行されたあと、1990年に新訂版(見えない死―脳死と臓器移植)、さらに1994年には増補最新版(新々見えない死―脳死と臓器移植)が刊行されています。

*4:法律で「脳死は人の死」と規定すれば、こうした「苦悩」はなくなるのだろうか。法律で「苦悩」がなくなると考えることこそ(改正案A案の提出者は、よくこうした発言をしていますが)、こうした「苦悩」を軽視していることなのではないかと思います。

*5:ただし、「脳死は人の死なのか」という問題については、ちゃんと勉強・研究している人ほど、「脳死は、人の死とは言えないのではないか」という考えを持つのではないかと思います。少なくとも僕は、勉強して、考えるほど、そうした思いが強くなりました。