豚のPちゃん

豚のPちゃんと32人の小学生―命の授業900日』を読みました。映画にもなって、ずっと気にはなっていました(映画は見逃してしまったので…)。僕も高校で「生命倫理」に関わる内容の授業を行っているので、「命の授業」の実践として、どのようなことが行われていたのかには、とても興味がありました。
この本自体は2003年の刊行ですし、実践自体はさらに10年前のことなので、現在の教育をめぐる状況とは違うと思いますが、それを差し引いても、どうしても引っ掛かる部分がありました。


なぜ引っ掛かるのかというと、僕自身が生徒の前で「生命倫理」に関わる事柄を授業するときに、感覚を鋭くしていることが、この本には書かれていなかったからです。

もちろん、この本に描かれている物語は、涙を誘う感動的な教育実践です(地元のドトールで読んでいたら涙がこぼれそうになりました…)。それでも、どうしても、引っ掛かるのです。

何事もはじめから成功するわけはないし、「いのち」を扱う試みにおいては、何が「成功」なのかも定かではありません。でも、それを教育という現場で行うときには、「失敗」は許されないと思うのです。
では、「失敗」とは何か?
生徒に嫌われることは「失敗」なんかじゃありません。
当然、生徒の受験の「戦績」などは、「成功/失敗」の評価基準にすらならないと思っています。
抽象的に言えば、生徒の「将来」に悪い影響を残すこと。(悪い影響って何だ?ってことになりますが)
より具体的に言えば、「いのち」を授業で扱う場合の最悪の「失敗」とは、生徒の命を失うこと、なんじゃないかと思っています。

この「Pちゃん」の話を読んで引っ掛かるのは、こうした「失敗」の可能性をどれだけ考慮していたのか、その「失敗」の可能性をどのように回避しようとしていたのか、さらに、実際に「Pちゃん」に触れた生徒たちにはどのような影響が残ったのか。こうした生徒への視線が、どうしてもぼやけてしまっているように思ったのです。

たぶん、この本に書かれていない、たくさんの苦労があったのだと思います。そのなかには、「失敗」の可能性をめぐる苦悩があったのではないでしょうか。感動のストーリーに仕立て上げるために、それらが切り捨てられてしまったのかもしれません。

成功。感動。
そういう言葉に流されないようにしたいものです。