「代理母」と貧困

ロイター通信の配信の記事に、「貧困から「代理母」の道選ぶインドの女性たち」というものがありました。
 ロイター通信の記事
昨年、日本人男性がインドで代理母を雇い、出産させた赤ちゃんがインドを出国できないというニュースがあり、貧しい女性が「お金」のために「代理母」となっていることがクローズアップされていました。今回のロイターの記事だけでなく、海外ドキュメンタリーなどでも、こうした貧困と代理母の問題が取り上げられることもあります。

移植ツーリズムへの批判が大きくなっている今日このごろです。現地のドナーから提供された臓器をもちいた移植を受けるために海外に渡航する。それが大まかな移植ツーリズムの説明になるわけですが、ロイターの記事によれば、インドのある地方は「子どものいない国内外の夫婦たちの「ラストリゾート(最後の手段)」」とのこと。こうした言葉づかいからも、「代理母ツーリズム」と言ってもよいでしょう。

臓器移植におけるドナーにせよ、代理母にせよ、本人による自己決定があれば、営利目的での臓器提供や子宮提供(=代理母)も正当化されるのか。
それとも、「貧困層への搾取」あるいは「人間の手段化・道具化」による人権侵害、尊厳を脅かす行為として、本人による自己決定で正当化すること自体を認めないのか。

こうした正当化をめぐる問いの構図に対して、そもそもの原因として貧困という問題を指摘することは、社会学的なバイオエシックスへのアプローチとしてよくあるもの。

しかしここから、「貧困層の搾取」をもたらすツーリズムを批判し、ドナー(というよりも臓器)や代理母の「自給自足」「国内調達」を目指す、という議論は何か重要な問題を通過してしまうように思います。
そもそも、第三者を巻き込むことでしか成立しない「医療」というのは、いかなるものなのか。
そのような「医療」を求めてしまう、「子どもが欲しい」「健康になりたい」「生きたい」という欲望は、いかなるものなのか。

バイオエシックスあるいは生命倫理(学)には、「倫理学」に留まらない問いの広がりがある。その意味では、バイオエシックス(あるいは生命倫理学)は既に、「倫理学」ではないのかもしれません。
けれども、そこに「倫理」があることを忘れてはならない、そのように思います。