世論調査は何を意味しているのか?〜社会的合意をめぐって

最近は、「社会的合意」をめぐる議論がそこまで盛り上がらないせいか、内閣府による世論調査の数字が独り歩きするような状況ではないので「ホッ」としていたのですが、先日の厚生労働委員会での審議でも、「世論調査の結果」に言及されつつ、「脳死は人の死」が国民に受容されつつあることが(A案の提出者を中心に)述べられていました。(厚生労働委員会での審議については、5月30日のエントリーで触れています。)

つまり、今回の委員会審議でも論点の一つは、「脳死は人の死」に「社会的合意があるか否か」ということだったと言えるのではないかと思います。
そこで改めて、世論調査の数字から「社会的合意」をどう考えるのかについて、少し考えてみたいと思います。


今回の委員会審議では、とくにA案の提出者から、「脳死は人の死」が国民に受容されつつあることの根拠がいくつか挙げられていました。*1
「おや?」と思ったのは、海外へ渡航して移植を受けるための募金に、全国で数千万円から億単位での金額が集まることを「脳死は人の死」が社会に受け容れられていると考える根拠としていたことです。
こうした募金活動をされている方々のホームページを拝見し、会計報告を確認すると、街頭などの募金よりも、口座への振込みでの金額が大きくなっているようです(7〜8:2〜3くらいの割合でしょうか)。匿名の大口募金があることが大きな支援になっていると思われるのですが、いずれにせよ、多くの方の募金があってこその金額とは思います。ただし、「募金をする*2」ということと、「脳死は人の死」ということを受け容れているということは、明らかに違うことだと思うわけです。

そして改めて、とても気になるのが、世論調査の使われ方です。
「気になる」というのは、(一応、社会学を専攻してきた者としては)この世論調査が「社会調査」として意味のあるものなのか、そしてその結果の解釈は「真っ当」なのか、ということ。さらに、そもそもどんな「調査票」なのか、どんな表現が使われているのか、ということです。*3
政府による世論調査のページへのリンクをまとめた4月17日のエントリーで、ちょっと書いたこともありますが、この手の調査の場合、どのような情報を与え、どのように質問するかによって、回答へある程度の影響を与えることが可能だからです。

その前に、まず「脳死は人の死」が受容されつつある、という理由に挙げられる世論調査の結果ですが、2008年の調査での「自分の脳死判定」についての質問文は次の通りです(「ア〜オ、わからない」の選択肢の左側のカッコ内の数字は回答率)。
 2008年9月の「臓器移植に関する世論調査」のページ

3.臓器移植に対する意識について
Q9〔回答票10〕
あなたは,仮に,ご自分が脳死と判定された場合,心臓や肝臓などの臓器提供をしたいと思いますか。この中から1つお答えください。


(22.5) (ア) 提供したい
(21.0) (イ) どちらかといえば提供したい
(28.4) (ウ) どちらともいえない
(7.3) (エ) どちらかといえば提供したくない
(17.1) (オ) 提供したくない
(3.7) わからない

確認すれば、この設問は、あくまでも「脳死と判定された場合,心臓や肝臓などの臓器提供をしたいと思いますか。」です。どう読んでも「脳死は人の死だと思いますか」と質問されてはいないのです。
脳死=人の死」ではなくとも、心臓提供を可能とする法理論はあります*4。もちろん、「一律に脳死は人の死」と規定していない現行法でも「脳死と判定された場合」に心臓や肝臓などの臓器提供が可能なわけです。
要するに、内閣府が実施した世論調査では、「脳死は人の死」について直接確認する質問はないと言えます。この結果をもって、「脳死は人の死」を受け容れている人が40%以上いる、というのは、かなり飛躍した解釈のように思います。

仮にこうした解釈を認めたとしても、そもそも、「(ウ) どちらともいえない」という回答が28.4%あります。(エ)と(オ)の「提供したくない」を合わせれば24%ほど。ここに(ウ)を足すと、50%以上の人が「提供したい、とは思っていない」ということになります。どれだけの賛成があれば「社会的合意」があると言えるのか、というのは、政治哲学の議論すら喚起する根源的な問題なのですが、それでも、半数以上の人が「提供したい、とは思っていない」。つまり、飛躍した解釈を適用すれば、「脳死は人の死だとは思っていない」という回答が過半数となっているのです。普通の感覚であれば、過半数にも満たないものに対して「社会的合意がある」とか「社会的に受容されつつある」なんて言えないようにも思うのです。*5

また、この調査の前半で回答者に提示される「脳死」についての説明は次のような資料です。

脳死について
脳死状態とは
呼吸などを調節している部分を含め、脳全体の機能が停止し、元には戻らない状態。
人工呼吸などの助けによって、しばらくは心臓を動かし続けることもできるが、やがては心臓も停止する。

この資料を見せた上で、臓器提供についての一般的な知識や意識が質問され、それに続いて、自分や家族の脳死状態での臓器提供について質問されています。
こうした順番で質問することで、回答者の心理に「臓器提供」について知らないことは好ましくない、という印象を与えているのかもしれず、「臓器提供したい」と思うように誘導できるのかもしれません。

さらに、上の「脳死」についての資料です。
もしこの資料での説明が、以下のようなものだったら、どうなるでしょうか。

脳死について
脳死状態とは
呼吸などを調節している部分を含め、脳全体の機能が停止し、元には戻らない状態として定義されています。
人工呼吸などの助けによって、しばらくは心臓を動かし続けることはできます。脳死状態になっても、脊髄反射の一部として手足を動かすことがあります(ラザロ徴候)。また従来は、この状態になれば、やがては心臓も停止すると言われていましたが、近年ではとくに子どもにおいて、1ヶ月以上、なかには数年間も心臓が動き続ける事例(長期脳死)があることも知られています。なお、臓器を体から取り出す手術をする際には、麻酔が使用されています。

この説明を読んだ上で、「脳死と判定された場合の臓器提供」について質問されたら、どう回答されるでしょうか(とくに15歳未満の自分の子どもについて)。
あるいは、「脳死は人の死だと思いますか」と質問されたら、どのような回答が集まるでしょうか。
もちろん、この説明の内容は、「推進派/慎重派/反対派」というような脳死臓器移植に対する立場で色分けすると、「推進派」による説明に出てくるものではありません。逆に言えば、この世論調査における「脳死」の説明も「偏ったもの」と言えなくもないわけです。

ちょっと想像力を働かせてもらえばわかるように、(客観的中立的なものだと言って)どのような情報を回答者に与えるかで、回答者の選択は影響を受けるのではないかと思うのです。
僕自身の経験でも、大学や高校で「ラザロ徴候」や「長期脳死」について講義すると、「脳死は人の死なのか、わからなくなった」「脳死は人の死ではないと思うようになった」という感想が寄せられてきました。「もっと「脳死」についての情報を広く知らせるべきだ」という感想もあります。もちろん、「やっぱり、脳死は人の死だと思う」という感想もあります。厳密に調査した結果ではなく、あくまでも経験に基づく印象です。それでも、「社会調査」を実施する者、調査結果を分析する者にとって、どんな情報を与えるかが回答に影響を与えるというのは、一般的なものとして知らなければならない知識です。


このように考えてみると、内閣府が調査実施主体*6となっている「臓器移植に関する世論調査」から「脳死は人の死」についての「社会的合意」を論じるのは、かなり無理があるように思います。
5月27日の委員会審議の映像を見る限り、「脳死は人の死」という考え方に対して「社会的合意」や「社会的コンセンサス」があるという主張を繰り返していたのはA案提出者やA案支持を明言していた質問者だけだったので、こうした世論調査の数字だけで「社会的合意はある」と判断されることは無いと信じたいものです。

最後に一つ。
脳死は人の死」について、議論に決着がつかないのは日本だけだ、「社会的合意*7」にこだわるのは日本の脳死論議だけの特徴だ、とも言われます。これらは、ネガティブな評価ではないように思います。法律を検討するにあたって、社会(あるいはpublic)の意向を踏まえることは、真っ当なことだと思うからです。つまり、日本のように社会(あるいはpublic)の意向を確認せずに「脳死は人の死」と結論付ける他の国々の議論こそ、どこか歪んでいる部分があるのではないでしょうか。もちろん、社会(あるいはpublic)だけが正当化する論拠というわけではありません。それでも、法律(の「改正」)を検討するにあたって、「首尾一貫して、論理的に解釈しやすい法律であるべきだ」という法律の専門家の意見や、「移植を進めるためには脳死は人の死とするべきだ」という移植に関わる医師の意見、移植を待つ人びとの意見だけではなく、臓器提供者となるかもしれない人びとの集合である社会(あるいはpublic)の意向を注意深くみようとする姿勢は、健全なものではないかと思うわけです。*8
ただし、それによって移植を待つ人びとにはツライ状況が続くのかもしれないということは、本当に悩ましいところではあります。

*1:脳死臨調の答申をもとに、「脳死は人の死」はおおむね社会的に受容されている、という答弁もありました。脳死臨調の答申は17年も前のものです(1992年)。17年前と現在と同一視するのは、いくらなんでも…と思ってしまいます。時間が経過すれば、社会的な受容が(自然に)進むという想定自体、簡単には正当化できないようにも思います。また後述するように、世論調査の数字はある程度の操作が可能です。

*2:「募金、寄付」というのは、英語にすればdonate、donationになるのかな?それともfund-raisingとなるのかな?もしdonate/donationが使われるのであれば、臓器提供のdonationと同じ語句になるわけで、ここは日本語と英語との語感の違いで興味深いところですね。

*3:2003年から「社会調査士」という資格制度が開始されました。残念ながら、僕が大学学部・大学院修士課程に在学中は、この制度導入以前だったため、「社会調査士」の資格を取得しているわけではありません。もちろん、「専門社会調査士」の資格を論文等の審査で取得する道はありますが、認定審査手数料の4万円は低くないハードルです…。http://jasr.or.jp/index.htmを参照。

*4:違法性阻却論など。ただし法律の専門家からの評判はよくないようです。

*5:脳死臓器移植論議における「社会的合意」については、修士論文での知見を発展させた論文を『現代社会理論研究』という学術雑誌に書いたので、それなりに考えてきた、そして考えているつもりです。『現代社会理論研究』第15号の目次

*6:内閣府が調査実施主体であることを提示した上での調査は、2006年調査以降とのことです。ただし調査実施機関は、2004年の調査から「社団法人 中央調査社」となっています。

*7:英語にすればbroad public consensusという表現が使われることもあります。

*8:さらに付け加えれば、「社会的合意が必要だ」という考え方の根底には、「人の死」は「医学」などの「科学」だけで決められるものではない、という考え方があると思われます。「脳死論議とは、この「科学」では決められない部分を、どのように考えるのか、という問題でもあるのです。