アメリカの「中絶」/日本の「脳死」

日本で「脳死」をめぐる議論に決着がつかないことを「遅れている」と言われることがありますが、文化・社会が異なれば、社会問題化する「生命倫理の問題」も変わります。よく例に挙げられるのは、欧米では「生命の始まり」に関わる「中絶」や「胚性幹細胞(ES細胞)研究」が政治的な問題となり、他方で日本では「生命の終わり」に関わる「脳死」や「安楽死」が問題になる、ということです。
今日のニュースに、こうした「違い」を改めて感じました。

http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200906010003.html
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2009060100109
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4146578.html
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090601-OYT1T00366.htm

やはり「中絶」というのは、大きな問題になるんですね。


当然のことながら、日本のメディア以上に、アメリカのメディアは、この事件に反応しています。新しい連邦最高裁判事の指名があることを、背景として関連付けているようです。
Suspect captured in killing of Kansas abortion doctor - Reuters *1

それにしても、最近の中絶関連の暴力事件一覧を見ると、2000年前後から(共和党政権だったから?ほかに「敵」がいたから?)しばらく沈静化していたけれど、1990年代には少なくない数の事件が起きていたことがよくわかります。
http://www.google.com/hostednews/ap/article/ALeqM5hsRcaLfmxox4cvkW6UmR36IILNlwD98HGJU80

日本では、いくらなんでも「暴力」に訴えるような事件は耳にしないですからね…
1980年代の「脳死論議では、「学会シンポジウムに反対派が押し掛けて…」という記事を読んだこともありますが、それでも医療従事者に対する物理的な暴力事件は起きていないか、起きていても報じられていないわけですから。

日本で「中絶」がまったく問題になってない、とも、日本での「中絶」に問題がない、とも思いません。ただそれ以上に、連邦最高裁判事が交代するたびに中絶の権利を認めたとされる「ロウ対ウェイド判決」への態度が問われ、こうした暴力事件が起これば「中絶(abortion)」関連として大きく取り上げられる文化・社会があることを目の当たりにすれば、「生命倫理が問われる」とされる問題に対して、「国際標準(グローバルスタンダード)に合わせる」とか「世界から遅れている」とか言うことの滑稽さに気づくと思うわけです。日本でも、暴力事件の「理由」や最高裁判事の任命に際して、「中絶」がスポットライトを浴びるようにならないと「遅れている」のか、と。

「中絶は許されるべきか、否か」というような「是非論」の論理ではなく、文化や社会に目を向けるのが、社会学的な生命倫理研究の視角かな、と再確認したニュースでもありました。

*1:※追記:ロイター通信の日本語サイトでもこのニュースが読めました。でも、簡潔な記事になってしまって、最高裁判事の件には触れられていませんね。米ミズーリ州、中絶手術担当医が教会で射殺される