生命倫理会議「臓器移植法改定に関する緊急声明」への勝手な解説(1)

生命倫理会議は、生命倫理の教育・研究に関わっている大学教員の方々70名以上の集まりです。生命倫理会議のブログを見ると、5月12日に「臓器移植法改定に関する緊急声明」を発表して以来、記者会見の模様や、メディアでの報道のされ方を公開するなど、緊急声明の発表だけで終わったのではなく、現在も活動を継続しているようです。

生命倫理の教育・研究に(未熟者ながら)関わっている身として、生命倫理会議には注目してきました。緊急声明についてや、連名者について、これまで5月12日のエントリー5月16日のエントリーで触れてきました。
この「緊急声明」の内容についての(学生向け)解説を書こうと思いつつ、気がつけば1ヶ月ほど経ってしまいました…
臓器移植法改正案」の衆議院本会議での採決が迫っていると報じられている今日この頃、さすがに、そろそろ「勝手な解説」を書きはじめてみました。
生命倫理会議のサイトから声明文を引用しつつ、それらに「勝手な解説」を加えてみたいと思います。脳死臓器移植についての授業の補足という意味もあります(脳死臓器移植というテーマについては、大学での半期の「生命倫理」の講義では2〜3コマ、高校での通年の授業では、大学の授業時間数に換算して3〜5コマ分でしか取り上げる余裕がないのです)。というわけで、緊急声明そのものの解説にはとどまらず、「脳死臓器移植」全体への解説にもなるので、長くなりそうですが…


まずは、前文です。

生命倫理会議は、生命倫理の教育・研究に携わっている大学教員の集まりです。私たちは、先端医療やバイオテクノロジーが単に医学・医療や科学技術の問題に留まらず、文化・文明・社会の今後を決定づけかねないとの認識のもとに、教育・研究を行ってまいりました。しかるに、マスメディア報道によると、臓器移植法の改定が今国会での重要案件となり、しかも改定法案を厚生労働委員会で審議もせぬまま、本会議で採決する蓋然性が高い、とのことです。そこで、私たちは臓器移植法改定に関しても社会的責任を負った生命倫理に係わる研究者として、象牙の塔にこもることなく、広く社会に対して以下の見解を表明いたします。

  • 「改定」という言葉づかい

5月12日時点での状況と、実際の審議の進行には違いがありますが、そこは仕方のないものとして、ここでは、緊急声明のタイトルにも出てくる言葉づかいについて。
臓器移植法改正」論議が脚光を浴びつつあった4月16日のエントリーにも書きましたが、まず「改正」という表現ではなく、「改定」という表現が使われているのは、現行の臓器移植法にある「条件」を緩和して移植医療を拡大することが、必ずしも「善い」「正しい」ことではない、との見方ではないかと思います。少なくとも、「改正」や「改悪」と言うには、そこに何らかの価値判断を伴うものです。「正しい」と思う状態に近づく「案」だから、「改正案」ということになるのではないでしょうか。それに対して、出来るだけ中立的な表現を探るとすれば、「改」でも「改」でもなく、「改」という言葉になる、というわけです。
ただ、わざわざ「改定」という言葉を使うことで、「臓器移植法」に慎重な立場というよりも、「反対」していると受け取られてしまうのかもしれません。

  • 象牙の塔にこもることなく、広く社会に対して

生命倫理」というと、哲学や倫理学の一部として、「高尚」な議論や研究、つまり「世の中の役に立たない議論」をしていると思われるかもしれません。あるいは、大学で研究や教育に携わる人々は、世の中のことには興味関心がない、と思われているのかもしれません。そうした見方に対して、この緊急声明は、「脳死臓器移植」という生命倫理のなかでも議論の蓄積のある領域について、生命倫理の知見を広く社会に対して活用しよう、という意思表示だと位置づけられているわけです。

それでは、具体的な声明の中身を見てゆきます。

1)脳死・臓器移植は、脳死者という他の患者からの臓器提供によってしか成立しないため、十全な医療とは言えない。医療が患者本人で完結せずに、脳死者という他の患者の“死”を前提とする以上、さまざまな問題が生じることは避けられない。

  • 臓器提供者を必要とする移植医療

これは自明でありながら、見過ごされ易いことです。移植医療は、患者と医療従事者という二者関係で完結するものではなく、臓器の提供者という第三者を必要とする医療なのです。この決定的に重要な第三者としての臓器提供者の存在を必要とするため、移植医療がどんなに世界的に実施されているとしても、「医療」あるいは「治療方法」としては不完全なものだということが確認されているわけです。それはもちろん、医療従事者の技術や努力の問題ではなく、この移植医療、とくに臓器移植という医療そのものの根源的な問題です。

  • 脳死者という他の患者の“死”

その上で、脳死・臓器移植においては、「脳死者」からの臓器提供が前提とされているわけです。
臓器移植(ヒトの同種移植)は、臓器提供者(ドナー)の状態によって大きく3つに分類できます。まず、生きている人から摘出された臓器を用いた移植(生体移植)。それから、死んでいる人から摘出された臓器を用いた移植(死体移植)。そして、脳死状態の人(脳死者)から摘出された臓器を用いた移植(脳死移植)。
もちろん、「生きている人」「死んでいる人」「脳死状態の人」という分類は、法律や社会的文化的な「死」の考え方の影響を受けて変化します。「脳死状態の人」を「死んでいる人」に含める場合は、脳死移植は死体移植に含まれることになるわけです。なお、現行の臓器移植法における取り扱いは、臓器を提供する場合に限って、「死体(脳死した者の身体を含む)」ということになっています。
ちなみに、ドナーの状態に注目するのであれば、心臓が拍動しているドナー(heart-beating donor)と心臓が停止しているドナー(non-heart-beating donor)という区別も可能です。この区別の場合は、生体移植と脳死移植が「心臓の拍動しているドナー」からの臓器提供、死体移植が「心臓が停止しているドナー」からの臓器提供ということになります。一般的に、心臓が拍動しているドナーから摘出された臓器を用いた移植の方が、移植成績は良好ということが言われています。
心臓や肝臓全体などの臓器をドナーから摘出する場合には、ドナーが「生きている」のか「死んでいる」のかが大きな法的問題となります。つまり、一般的に、動いている心臓をドナーから摘出する行為は、「殺人」となりえます。それゆえ、「脳死状態のドナー」から心臓(や肝臓全体、二つ腎臓など)を摘出しても「殺人」にならないように、「法律」によって合法化しなければいけない、ということになるわけです。

2)その一環として臓器不足が叫ばれて久しいが、「臓器不足」とは「脳死者不足」に他ならない。一体、臓器移植の必要数に見合った脳死者が生じる社会とはいかなる社会なのか。例えば現今の日本の人工透析患者26万人を、仮に脳死・臓器移植で救おうとするなら、最低13万人もの交通事故などによる脳死者が必要になる。

  • 「臓器不足」と「脳死者不足」

日本での議論においては、脳死移植や死体移植が広がらないことが指摘されています。数年前までは移植実施件数での比較が多かったのですが、最近では、人口当たりの移植実施件数や提供臓器数などで比較されることが多くなっています。いずれの指標においても、日本は欧米(あるいはアジア諸国)に比べて脳死移植や死体移植の移植実施件数が、少ないということになっています(ただし、生体移植に関しては異なる)。
そこで「臓器不足」ということになるわけですが、これはすなわち、臓器提供者が少ないことになるわけです(ただし、生体移植を含めたドナーの人数ということで考えれば、決して少ないわけではないと思われる)。脳死状態からの臓器提供が少ないということには、単純に2つの要因が考えられます。1つが、脳死状態になってしまった人のなかで臓器提供の意思を有する人(あるいは移植に使用できる臓器)が少ないということ。もう1つが、そもそも脳死状態になる人が少ないということ。ここでは、後者の要因に着目されているわけです。
世界的にみて、もっとも多く移植が行われている臓器は、腎臓です。人の体には二つの腎臓があり、そのうちの1つを摘出しても日常生活には支障がないと言われているので、生体腎移植も可能であることや、死体腎移植や脳死腎移植の場合(あわせて献腎移植と呼ばれることもあるようです)は、1人のドナーから二つの腎臓が摘出され、二人の移植を待つ患者(レシピエント)に移植することが可能であることも挙げられます。
それに対して、自分の腎臓二つが機能しなくなっても、人工透析により生命を保持することが可能です。けれども、人工透析患者のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)は決して高いものではなく、また、人工透析を一生続けることが出来ない人もいます。そこで、人工透析患者すべてに腎臓移植をすることが出来れば、そうした人々のQOLを高めたり、生命の維持が可能になるわけです。
とはいえ、現在、日本には人工透析患者が26万人いると言われています(2007年末で27万人以上が透析治療を受けているとのデータもあります)。この人々すべてに「腎臓」を提供するためには、1人のドナーから二つの腎臓を摘出したとしても、単純計算で13万人の臓器提供者が必要ということになるわけです。実際には、2009年6月1日現在、腎臓の移植を希望して日本臓器移植ネットワークに登録しているのは11,695人となっています。この人たち全てに腎臓を提供するためであっても、最低で5,800人以上の臓器提供者が必要ということになります。この臓器提供者がすべて脳死状態の人であった場合、それだけ多くの脳死状態の人が必要になるわけです。

  • 多くの脳死者が生じる社会

そもそも脳死状態になってしまうことは、その人にとって幸福なことではありません。脳死状態にならないこと、治療によって回復することが望ましいということに異論はないと思います。
つまり、脳死移植が多く実施される社会というのは、それだけ多くの人が脳死状態になってしまう社会ということであり、そのような社会は、決して望ましい社会とは言えないのではないか、ということです。


(予想通り)長くなってしまったので、今日はここまでにして、続きはまた改めて。

※追記
つづきは、6月12日のエントリーにあります。