生命倫理会議「臓器移植法改定に関する緊急声明」への勝手な解説(3)脳死をめぐって

生命倫理会議が公表した「臓器移植法改定に関する緊急声明」への勝手な解説の続きです。生命倫理会議のサイトから声明文を引用しつつ、それらに「勝手な解説」を加えてみたいと思います。
先日のエントリーでは、声明のうち、6)まで解説したので、7)についてからになります。
いよいよ、というか、ようやく、「脳死=死」について、です。

7)翻って、最も重大なこととして、「脳死=死」が科学的に立証されていない。体温を保ち、脈を打ち、出産も可能で、滑らかな動き(ラザロ徴候)を見せる脳死者が、なぜ死人といえるのか。また、死人ならなぜ臓器摘出時に麻酔や筋弛緩剤を投与するのか。世界的に唯一公認されてきた有機的統合性を核とする科学的論理も、最高21年生存した長期脳死者の存在により破綻したと言える。仮に子供の完璧な脳死判定方法が実現しても、それは「脳死状態」を確定できるだけで、「死」を規定できるわけではない。

脳死」についての僕なりの論点整理は、5月18日のエントリーで行ったので、繰り返さないように要点だけを。
まず、「脳死状態」を簡単に説明すれば、脳のすべての機能が失われてしまい二度と元には戻らない状態だと言えます。この「脳死状態の人」を「死んだ人」と考える、あるいは、「脳死状態=人の死」と考える、というのが、ここで「脳死=死」とされているものです。
そして問われているのは、なぜ「脳死状態=人の死」だと言えるのか、ということです。「脳死=死」という場合の「=」が成り立つ理由が問われているわけです。
日常的な感覚では、「人の死」とは「心臓の停止」ではないでしょうか。その感覚からすれば、「脳死状態」になっても心臓は動き続けているわけですから、「脳死状態=人の死」とは言えないハズなのです。以前のエントリーで引用した「見えない死」という表現は、こうした体温を保ち、脈を打つ脳死状態の人のことを意味しているわけです。
それでは、何が、この日常的な感覚では言えないことを可能にしているのでしょうか。どんな理由があって、「脳死状態=人の死」だと言えるのでしょうか。
おそらく、もっとも広く納得されるのは、「脳死=死」には科学的な理由がある、ということだと思います。
ここでは、この「脳死=死」に科学的な理由があるとは言えない、「脳死=死」と科学的に証明できない、ということが指摘されているわけです。これは「感情論」などでは決してないわけですから、かなり重大な指摘です。

  • ラザロ徴候

僕がラザロ徴候の存在を初めて知ったのは、いつだったか…。とりあえず、小松美彦氏による『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』の93頁〜102頁で、ラザロ徴候について連続写真や国内外での研究についてまとめられています。そこで紹介されているラザロ徴候というのは、脳死と診断された患者が見せる手足の連続的な動きです。たとえば、両腕がおよそ45度まで上がり、両手を合わせて祈るような動作をして指を握り締め、その後、両手が離れて胴体の横へと戻る、というものです。
2006年10月17日オンエアのニュースJAPAN「時代のカルテ」では、この「ラザロ徴候」の映像が流れました。僕が知る限り、これが唯一、マスメディアに映像で流れたものです。ちなみに、僕が担当する授業で「脳死」を取り上げる際には、必ずといっていいほど、この番組をみせています。
このラザロ徴候ですが、脊髄反射の一部として説明されることもあります。たとえば、竹内一夫氏は『改訂新版 脳死とは何か―基本的な理解を深めるために (ブルーバックス)』の55頁において、「ラザロ徴候(Lazarus sign)と呼ばれる呼吸運動様の複雑な自発運動も脊髄由来と考えられている」と述べています。1987年に刊行されたこの本の旧版では、ラザロ徴候については全く言及されていませんでしたが、2004年刊行の改定新版から、先ほどの記述が増補されています。ちなみに竹内一夫氏は、現在も臓器移植法と施行規則によって指定されている脳死判定基準を、1985年に発表した厚生省の研究班のリーダーだった方です。
いずれにせよ、脳死状態の人は、ラザロ徴候として呼ばれる一連の自発運動を見せるわけです。
生命倫理会議が緊急声明を発表した記者会見では、ラザロ徴候の映像を放映したそうです。

  • 出産が可能

脳死と診断された妊婦が出産したという事例は、いくつも報告があります。たとえば、最近のものでは英国人女性、脳死診断の2日後に女児出産という2009年1月14日配信のロイターの記事があります。ほかにも、2006年6月のイタリア脳死と診断された女性の出産 てるてる日記/ウェブリブログにある2005年7月のアメリカでのケースなどについてニュースがあります。ドイツでの脳死臓器移植論議に影響を与えたとして有名なのが、エアランゲン・ベイビー事件です。これは、妊娠した女性が脳死と判定されてしまい、医師が妊娠を継続させ(=脳死状態で延命させ)出産させようとしたけれど流産してしまった、という1992年10月のケースです。
こうした事例に対しては、「きちんとした脳死判定がされていなかった」とか、「厳格な脳死判定をしていれば、そうした妊婦は「脳死」とは判定されていないハズだ」という反論がすぐにありそうです。そうした反論がありうると分かった上で、ここではとりあえず、脳死と診断されても(帝王切開によって)出産した、というニュースがあるということの確認にとどめます。(ちなみに、欧米では帝王切開での出産は決して珍しいものではない、と聞いた覚えがあります。)
なお竹内一夫氏の『改訂新版 脳死とは何か―基本的な理解を深めるために (ブルーバックス)』24頁では、後述する長期脳死の一部として、妊婦が脳死と判定された後、帝王切開によって出産することがあることも書かれています。

  • 臓器摘出時に麻酔や筋弛緩剤を投与する

脳死状態の人から臓器を摘出するときに、血圧が上昇したり、麻酔を使用することについては、再び小松氏の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』では87頁から90頁で述べられています。こうした指摘に対して、目立った反論がないということは、麻酔や筋弛緩剤の投与は虚偽ではない、ということではないかと思います。

通常、脳死状態になってしまったら数日で心臓も停止すると言われています。しかしながら、「脳死」と診断されても、心臓が停止しないで、その状態が持続する場合があることが知られています。それが、長期脳死(慢性脳死や遷延性脳死とも)と呼ばれる状態です。
この長期脳死に関する最重要文献は、アラン・シューモンによるものだと思われます。シューモンの論文は、脳死と診断されて1週間以上生存した事例を集め、メタ分析したものです。シューモン論文は『科学』2008年8月号「特集 生と死の脳科学」に訳出されており、訳者の小松真理子氏による訳者解説もとても有益なものとなっています。
この長期脳死の事例は、とくに子どもの場合に多くあらわれます。
前述した竹内一夫氏をリーダーとする厚生科学研究費事業「小児における脳死判定基準に関する研究」では、1987年から1999年の間に脳死と疑われる6歳未満の子どもの事例139件を調査し、その結果、脳死判定を行ってから心臓が停止するまでに30日以上要したものが25例あったと報告しています。なお、http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue2004.htmlのNo.440で「小児における脳死判定基準に関する研究班報告書」の要旨について言及されています。
また、http://fps01.plala.or.jp/~brainx/opinion20090512.htmlでは下の方にある「表」として、「「脳死」と診断されたものの、長期にわたって生き続けた子どもについての報告」の一覧表があります。ここには医学論文が8つ挙げられています。
さらに長期脳死のお子さんとご家族の映像については、5月18日のエントリーで取り上げた5月17日夜のフジテレビ「サキヨミLIVE」や、6月6日のエントリーで触れた6月5日夕方のTBS「総力報道!THE NEWS」、あるいは5月6日のFNN「ニュースJAPAN 時代のカルテ」などでマスメディアに流れました。
生命倫理会議が緊急声明を発表した記者会見では、長期脳死についても映像を放映したそうです。

長期脳死の存在は、「脳死状態=人の死」とする科学的な根拠を崩壊させるものだと指摘されています。前述した『科学』所収のシューモン論文もこうした論旨です。また、シューモン論文にもとづき議論を展開している小松美彦氏の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』では108頁から127頁、『思想』2005年9月号(No.977)の「メタ・バイオエシックス」特集所収の小松美彦論文「「有機的統合性」概念の戦略的導入とその破綻」やM.ポッツ「全脳死への鎮魂歌」などを参照してもらえれば、と思います。
ここでは、やや乱暴ですが、簡単にまとめてみます。
まず、「脳死状態=人の死」である根拠として、「脳死状態になったらすぐに心臓が停止するから」というものを考えてみましょう。長期脳死が意味するのは、「脳死状態になってもすぐに心臓は停止しない」ということです。つまり、この根拠は使えない、ということです。
この声明で「世界的に唯一公認されてきた」根拠とされているのが「有機的統合性を核とする科学的論理」というわけです。この論理とは、「脳は、身体の各部分のはたらきを統合する」だから、脳の機能が失われたら「死んだ」ということになる、というものです。たとえば、断頭台(ギロチン)で頭部を切り落とされ、「脳」がなくなってしまえば、首から下の身体は、はたらきを失い「死ぬ」わけです。こうした論理のことを、「有機的統合性」と呼んでいるわけです。
逆に言えば、この「有機的統合性」以外の「脳死状態=人の死」とする科学的根拠は、すべてダメというわけです。
しかしながら、この「有機的統合性」の論理も、長期脳死の例によって決定的なダーメジを受けているのです。
長期脳死の状態になった人は、排泄をおこなうだけでなく、爪がのび、髪がのびる。さらに、成長するのです。本当に脳が「有機的統合性」を司っているのであれば、脳死状態になったら身体は活動しなくなる。つまり、成長することは有り得ないのではないか、ということです。

  • 完璧な「脳死判定」と「死を規定」すること

脳死判定というのは、その人が「脳死状態」であることを判定するものです。つまり、「完璧な脳死判定」が実現すれば、「本当は脳死状態ではないのに、誤って脳死状態と判定されてしまう」ことがなくなる、ということです。
しかしながら、「脳死状態=人の死」と考えるには、この「=」の部分の根拠が必要なわけです。そして、その科学的根拠も、有機的統合性がダメだということなら、ほかには無い、つまり、「脳死状態=人の死」という科学的根拠はまったく失われているわけです。
だから、「完璧な脳死判定」が実現しても、「脳死判定→脳死状態」ということが完璧になるだけであって、「脳死状態=人の死」の根拠にならないというわけです。


というわけで、7)について、つまり「脳死」をめぐる指摘を確認してきました。
残る部分は、(三たび)改めて。

※追記
つづきは、http://d.hatena.ne.jp/minajump/20090615/1245033149:6月15日のエントリーにあります。

※追記2009.06.15
いくつかの文献を確認した結果、僕が始めて「ラザロ徴候」や長期脳死について知ったのは、おそらく、森岡正博生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』(勁草書房、2001年)だと思います。ラザロ徴候や長期脳死を取り上げたシューモンにも言及している、この本の第一章「いま脳死を再考する」は、脳死臓器移植論議を考える上で重要なものだと思われます。森岡正博氏のページで公開されている森岡正博「日本の「脳死」法は世界の最先端」(Life Studies Homepage)が、この第一章のもとになった文章です。