生命倫理会議「臓器移植法改定に関する緊急声明」への勝手な解説(4・完)

生命倫理会議が公表した「臓器移植法改定に関する緊急声明」への勝手な解説の続きです。生命倫理会議のサイトから声明文を引用しつつ、それらに「勝手な解説」を加えてみたいと思います。
先日のエントリーでは、声明のうち、「脳死=死」についての7)を解説したので、8)以降についてです。

8)さらに、臓器移植法が存在しても、「ドナー=脳死者」の人権蹂躙が問題となる。例えば現行法下で行われた81人の脳死判定と臓器摘出では、法律・ガイドラインの違反が多々なされてきた疑いがぬぐいきれない。政府・国会はまずこれらを精査すべきである。精査しない限り、「ドナー=脳死者」の人権が守られる見込みはなく、人権蹂躙は子供にまで拡大しかねない。またD案のように、「ドナー=脳死者」の保護のための「第三者機関」を設けたとしても、その実効性は乏しいことが予想される。

まず確認すべきことは、臓器を摘出する行為は、傷害罪(殺人罪)あるいは死体損壊罪に問われる可能性を持つものだ、ということです。
亡くなってしまった人は、何も言えないのです。もし臓器提供者本人の意に反したことがあったとしても、本人は亡くなっているので、何も言えません。だから、事後的にでもきちんと、検証することが必要なわけです。
3年後の見直しを定めた条項でもある臓器移植法の附則第2条は、「この法律による臓器の移植については、この法律の施行後3年を目途として、この法律の施行の状況を勘案し、その全般について検討が加えられ、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるべきものとする。」とありますが、この法律の施行の状況を勘案し、検討されることが求められているわけです。
臓器移植法のもとでの脳死からの臓器摘出については、厚労省の「脳死下での臓器提供事例に係る検証会議」で検証されています。直近の2009年3月13日に開催された第31回では、「第52例目、53例目、54例目及び55例目の事例の検証について」が議題となっています。ところで、最新の脳死からの臓器提供は、2009年2月8日の第81例です。この55例というのは、2007年5月13日の事例です。つまり、2年前の事例の検証すらまだ終えていないのです。
これは慎重に検証を重ねてきているから、でしょうか。
過去の検証会議の開催を確認してみると、第31回 2009年3月13日、第30回 2008年6月10日、第29回 2007年12月26日、第28回 2007年9月14日、第27回 2007年6月25日、第26回 2007年1月12日、第25回 2006年8月21日、となっています。
というわけで、年に数回開催されているだけです。年間の脳死からの臓器移植実施件数が、1〜2例であれば、この頻度での検証会議の開催でも間に合うのかもしれませんが、現状の検証体制のまま、年間の移植実施件数が増えれば、法律違反やガイドライン違反があっても、公的な検証が追いつかない、あるいは、検証すらされずに終わるのではないでしょうか。(そもそも、この検証会議は非公開なので、本当に違反がなかったかどうかは、外部にはわかりません。)
こうした法律・ガイドライン違反を検証する体制が整っていない、ということは、臓器提供者の人権が守られていない可能性もあります。
日本弁護士連合会は、過去の脳死からの臓器提供事例について、法律違反・ガイドライン違反による人権侵害についても言及した意見書を公表しています。http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/060314.html
日本弁護士連合会は,1999年に実施された第1例、第2例、第4例の脳死判定と臓器移植について、人権救済申立を受け、いずれについても勧告・要望をしています。また福岡県弁護士会は、第9例の脳死判定に対して、「法的脳死判定マニュアル」で定められた脳波の測定方法をとらずに平坦脳波と判定したため、脳が活動している徴候、つまり生きている徴候である脳波の検出を見落とした危険があるとして勧告しています。
この日弁連による意見書では、検証会議がきちんと機能していない点についても指摘されています。
こうした日本弁護士連合会からの指摘に対して、移植を行う医師の集まりである日本移植学会が、自主的に脳死からの臓器移植の事例を検証し、報告書を公表しているということは、ありません。日本移植学会は、A案支持を打ち出し、A案の必要性を繰り返すだけで、過去の事例の検証はしてないのです。お知らせ|日本移植学会

こうした状況から、ドナーの人権侵害、法律違反・ガイドライン違反について精査すべきだと、指摘しているわけです。

ちなみに、臓器移植法には「礼意の保持」として第8条に次のような条文があります。
「第6条の規定により死体から臓器を摘出するにあたっては、礼意を失わないよう特に注意しなければならない。」
第6条の規定というのは、死体および脳死した者の身体から臓器を摘出することについて定めた条文です。当たり前のことながら、臓器を摘出するにあたっては、礼意を失わないよう特に注意しなければならないわけです。臓器の摘出だけではなく、移植医療に関わるすべての局面において、この「礼意」を失わないようにされていれば、法律違反やガイドライン違反なども生じ得ないと思うのですが…

9)そして、「脳死=死」を規定したと読めるA案が成立した場合、少なからず存在する長期脳死者は命を断たれうる。しかしながら、長期脳死者とその家族が必死に生きている姿についてほとんど知られないまま、いかに臓器提供を増やすかの議論ばかりがなされている。臓器移植を人間同士の連帯と見るなら、(長期)脳死者との連帯も考えなければならない。

  • 脳死=人の死」を規定しているのか

現在審議されている改正案によって、臓器移植法の第6条がどのように変更されるのかについては、5月19日のエントリーで一覧を作成しました。とくにA案については、これまでの衆議院厚労委員会などでの審議でも、「脳死=人の死」ということを一般的に規定したのか、それとも脳死状態からの臓器提供の場合にだけ「脳死=人の死」としているのか、ということが繰り返し質問されていました。少なくとも、改正案として提出されている条文を読む限り、「脳死=人の死」ということを一般的に、つまり臓器移植に関わらない場合も含めて、規定しているというように読むことができます。そして、A案提出者となっている国会議員の方々は、「脳死は人の死」であることを繰り返し強調してきている方々なので、こうした理解が、もっとも理にかなったものだとも思います。
その上で、もし「脳死状態=死」ということになれば、長期脳死の状態ながら生き続けている人たちは、「死んでいる」ということになります。そして、「死んでいる」のであれば、医療保険の適用もされなくなるのではないか。そうなると、長期脳死の状態のまま生き続けて欲しいと親が望んでも、それが出来なくなるかもしれないわけです。
以前のエントリーで書いたことですが、長期脳死のお子さんと8年に渡って生きてきたご家族を前にして、「あなたのお子さんは“脳死”なのだから本当は死んでいるのです」とは言えないと思います。それは、移植を待つお子さんを持つご家族に「移植を諦めてください」と言えないのと同様ではないでしょうか。逆に言えば、移植を待つお子さんを持つご家族に寄り添い、支援する気持ちがあるのであれば、なぜ、同じように長期脳死のお子さんを持つご家族を支援する気持ちが生まれないのでしょうか。

  • 人間同士の連帯

「連帯」というと、そこに政治的な意味合いを感じてしまう言葉です。ただし、臓器移植に関しては、この「連帯」という言葉に少なからぬ意味があります。
それというのも、臓器提供における意思表示のあり方については、大きくopt-in(contracting-in)とopt-out(contracting-out)という二つの方式があります。これは以前のエントリーで、WHO移植指針と改正案を比較した際に、「臓器提供における意思表示の条件について」として紹介したものです。opt-inというのは、臓器提供を承諾する意思表示がある場合にのみ、臓器摘出を許すもの。つまり、意思表示が無い場合には臓器の摘出はできない。opt-outは、臓器提供を拒否する意思表示がある場合は臓器摘出できない、けれども、その意思表示が無い場合は、臓器摘出が出来るというもの。
自分のカラダは自分のものであるのだから、死後の臓器提供などについても、自分で決めることが出来る。そのように考えるならば、opt-in方式が採用されることになります。(opt-inを採用しているのは、アメリカ、ドイツ、イギリス、オランダ、日本など)
それに対してopt-out方式が採用されるということには、死後のカラダについては、個人のものではなく、社会のものとして扱われる、そこでは個人の意思決定は二次的なもの(重要ではないもの)になる、という考え方が根底にあります。(opt-outを採用しているのは、フランス、イタリア、スペイン、ベルギー、オーストリアなど)
こうした思想のことを考えると、このopt-out方式を採用している国は個人の自由よりも、社会の福祉を重視する社会民主主義国家ということになるのかもしれません。
それにしても、なぜ、死後のカラダについて、個人の自由よりも、社会の福祉を重視することができるのか。2000年に放送された「NHKスペシャル 世紀を越えて いのち 生老病死の未来(3)脳死移植 生と死の問いかけ」では、イタリアでopt-out方式を採用できる理由として、憲法にある2つの条文が挙げられていました。それが、「社会的連帯行動を国民に義務付ける条文」と「国民の健康を守ることが国家の利益とする条文」です。これらの条文があるからこそ、国民の福祉が目的なら国は、死亡した住民は潜在的な臓器提供者であると決定できるのだと、この放送では紹介されていました。
もし、社会的連帯行動として臓器の提供を求めるのであれば、同じ社会的連帯行動として、長期脳死となった人を支援することが、そこに含まれないのはなぜか。
改正案のうちA案は、opt-in方式からopt-out方式へと変更するという解釈もできるものです。だとすれば、日本でopt-out方式を採用することが出来る根拠は何か。そこに「連帯」という考え方を持ち出すのであれば、長期脳死となった人や、脳死状態の人との「連帯」を考えないのは、なぜか。こうしたことを指摘しているわけです。

10)政府・国会およびA〜D案などの各法案の提出者・賛同者は、少なくとも以上について徹底的に審議し、まず国民に納得のゆく見解を提示する責務がある。また、そもそも、人の生死の問題を多数決に委ねたり、法律の問題にすり替えたりするべきではない。

  • 多数決に委ねたり、法律の問題にすり替える

この点については、緊急声明を発表した記者会見においても、最後に質問されていました。そこでは、まず、これまで「人の死」について定めた法律は存在しないことが確認されています。脳死臓器移植についての法をめぐる資料集として『脳死と臓器移植 (資料・生命倫理と法)』を見ても、法令における死の概念としては、昭和21年の厚生省令「死産の届出に関する規程」で「死児」の定義として三徴候(≒心臓の停止による死)を基礎としていると解釈できるのが唯一のものであって、「積極的に死の概念を定義したものは存在しない」と解説されています。
その上で、A案のように「人の死」について条文に書き込むことは、多数決を基本とする国会の場に「人の死」についての判断も委ねることになる、という指摘です。
臓器移植法改正案」の衆議院での採決が迫るにつれ、悩む国会議員の姿をメディアを通して知ると、この指摘の意義もわかるのではないかと思います。移植法、賛否で苦悩=議員勉強会−自民 時事ドットコム


とはいえ、国会で改正案についての採決が迫っているのは動かしようの無いことです。生命倫理会議は、6月11日に、「臓器移植法改定に関する徹底審議の要望」を発表していました。生命倫理会議: 臓器移植法改定に関する徹底審議の要望
生命倫理の教育・研究に携わる大学教員の方々が、これだけ集まり、意見表明しているわけです。学力低下などの問題も指摘される昨今ですが、こうした専門家の意見を、つまり「学知」を、重んじるべきときには重んじるということが社会的になされない限り、日本の高等教育(大学教育、大学院での教育研究)も先細りになるのかな、なんて思ってしまいます。

いずれにせよ、今週あるいは来週にも、衆議院本会議での採決が行われると言われています。
臓器移植法改正案、18日採決で調整―日経ネット
それにともない、票固めを目指した行動も報じられています。
http://203.139.202.230/?&nwSrl=142827&nwVt=npd
ひとまず明日16日の衆議院本会議での改正案についての討論、そして18日とも言われる採決の結果が、自民党ベテラン議員の名前を前面に出した「多数派工作」の結果という政治的な結末ではないことを願うばかりです。


※勝手な解説の一覧は以下になります。
生命倫理会議「臓器移植法改定に関する緊急声明」への勝手な解説(1)
生命倫理会議「臓器移植法改定に関する緊急声明」への勝手な解説(2)
生命倫理会議「臓器移植法改定に関する緊急声明」への勝手な解説(3)脳死をめぐって
生命倫理会議「臓器移植法改定に関する緊急声明」への勝手な解説(4・完)