脳死臓器移植と医学・医療技術の進歩と価値観

臓器移植法改正案」の衆議院での審議は、今日午後の本会議での簡単な討論を終え、18日にも、いよいよ採決という状況になりました。
(未熟者ながら)「脳死臓器移植」の社会的文化的側面を研究してきた者として、少し広い視野から、この問題を考えてみたいと思います。
一つは、2008年5月の国際移植学会による「イスタンブール宣言」と、それとは別の、WHOによる(新)移植指針が意味するものを、量的拡大一辺倒だった世界における移植医療が国際的な管理のもとでの移植医療への転換点という視点から確認すること。
もう一つは、医学・医療技術の進歩によって、社会・文化の変容あるいは価値観の変容がもたらされるとしても、医学・医療技術の進歩により、その変容自体にも、変化が起きるのではないか、という視点です。

国際移植学会による「イスタンブール宣言」と「WHO(新)移植指針」の内容が、必ずしも同じではない、ということは、最近、マスメディアの報道でも理解されてきたようです。これについては、東京財団の臏島次郎(ぬで島次郎)氏が指摘されていたり、生命倫理会議: 臓器移植法改定に関する徹底審議の要望でも国会議員への要望書のなかで確認することを求めています。僕自身も、5月24日のエントリーで、「WHO(新)移植指針」の内容を確認しました。*1
もちろん両者には、共通点と相違点があります。

なによりも、共通しているのは、「臓器売買の抑止」です。とくに貧しい人々が生活苦から腎臓を売る、あるいは臓器摘出目的の人身売買、こうした豊かな人々による貧しい人々の「搾取」が問題視されているのです。*2
そして、この「臓器売買の抑止」のために求められることにも、共通点があります。それが、「生体移植」の法制化などの管理であり、そして、臓器提供と移植の安全性と透明性を確保するための監視システムの構築です。*3

そして両者の最大の違いは、「臓器売買の抑止」のために、「移植ツーリズム」を禁止するなかに日本で「渡航移植」と呼ばれるものまで含めるか否かという点*4、そして、各国に「(脳死を含む)死体臓器提供」の増加、つまり「臓器の自給自足」を求めるか否かという点です。*5
イスタンブール宣言」では、「移植ツーリズム」を禁止し、それぞれの国家の責任において「臓器の自給自足」を求めてゆく。つまり、国内で臓器を得られれば国外で移植を受ける人はいなくなる、という発想です。こうしたことによって、「臓器売買」という負の側面を削りつつ、移植の量的拡大を目指すものだと言えます。
一方の「WHO(新)移植指針」では、「臓器売買」を禁止するために「生体移植」の国際的な監視システムの導入とともに、患者が移植を必要とする状態にならないようにする努力も盛り込まれています。つまり、臓器提供の増加が必要であってもそれだけではなく、移植を必要とする人を少しでも抑制することで、全体としての臓器の需要と供給のバランスを目指すというものです。さらに、国際的な監視システムにより移植医療全体を統制し、臓器売買の抑止と移植医療の技術向上を目指すことが志向されているわけです。まとめれば、限られた臓器という資源(resource)を上手に使うための知恵を求めていると言えるでしょう。*6
これは、限られた資源を有効に活用する。ある意味で「エコ」な志向性だと言えるのかもしれません。

こうしてみると、WHO(新)移植指針が来年のWHO総会で採択されようとしていることは、移植医療における転換点になるのかもしれません。臓器移植という医療が世界的に普及するようになったのは、効果的な免疫抑制剤が利用できるようになった1980年代以降です。それ以来、四半世紀を経て、移植医療は転換点を迎えているのではないでしょうか。
つまり、量的拡大というパイの拡大を志向した移植医療から、限られた資源(それは、そもそも人が提供せねばならない)をうまくやりくりする、あるいは臓器移植に頼らない代替医療を進展させる、そして、多様な文化・社会があるなかで、国際的に協調するシステムの構築を目指す。求められているのは発想の転換かもしれません。そして、こうした移植医療をめぐる転換点に、われわれは立っているのかもしれません。

  • 医学や医療技術の進歩と価値観

1960年代あるいは70年代以降、医療技術が進展し、さまざまな倫理的問題を顕在化させてきました。それらの問題では、文化・社会の価値観、あるいは個々人の価値観が衝突するものも少なくなかったと言われます。こうした状況は、「新しい医学・医療技術によって実現可能となったこと」と「従来の価値観」との衝突として解釈されることもあります。
たしかに、人工呼吸器の普及が、1968年の「ハーバード基準」を皮切りにした「脳死=人の死」をめぐる新たな「死の定義」問題を出現させています。そしてここでは、「脳死=人の死」という新しい考え方と、心臓の停止を含む三徴候による人の死の判断というそれまでの考え方が衝突している、というわけです。こうした見方からすると、「脳死=人の死」という「新しい科学的な死の定義」を受け容れられない人は、保守的な人、あるいは、科学的ではない人、進歩的ではない人というように見られるのかもしれません。
その一方で、医学・医療技術は進展し続けてしかるべきです。「脳死」についての研究も、ここ20年前後で進展していて当然ではないでしょうか。6月13日のエントリー生命倫理会議の緊急声明への勝手な解説を試みたなかで紹介した「ラザロ徴候」や「長期脳死」といった事例は、1980年代以降の知見です。さらに「長期脳死」の存在によって、「脳死=人の死」という科学的な論理が破綻していると主張する議論もあります。もしそれが正しいものであれば、こうなります。
脳死=人の死」は科学的なものだという古い考え方に対して、科学的には「脳死≠人の死」であるという新しい考え方が現れている。そして、臓器移植のためには「脳死=人の死」の方が都合がよいから、そうした古い考え方を捨てられない保守的な人、科学的ではない人がいる。だから、科学的には「脳死≠人の死」であるという新しい考え方と、古い脳死=人の死」という考え方が衝突している。

脳死状態にならないような治療技術の研究開発を含めて、「脳死」をめぐる医学・医療技術が進展している現在、「脳死=人の死」という考え方も転換点を迎えているのかもしれません。

  • 転換点で確認すべきこと

1980年代から90年代にかけての日本の「脳死臓器移植」論議において、指摘されていたのは、「臓器移植は過渡期の医療技術である」ということです。臓器提供者という第三者が不可欠である現在の臓器移植には、量的な面(臓器の供給)でも、倫理的な面でも、そもそも限界があるという認識です。そこで真に目指されるべきは、「人工臓器」であり、体内に埋め込む「人工臓器」の開発だとされていました。
たとえば「人工心臓」です。埋め込み型の人工心臓が実現すれば、心臓移植を望みながら「臓器」が得られず命を落す人にとって朗報となります。テルモのホームページを見ると、こうした人工心臓は、現在では「心臓移植を待つ患者さんの”つなぎ”を主な目的として使われていますが、将来的には、より長期的な使用にも対応できるよう開発を継続」しているとされます。*7
たしかに人工心臓は、人工肝臓などに比べて実現の近い技術かもしれません。けれども、こうした臓器提供者(ドナー)という第三者の人間を必要としない医療技術を視野に入れ、「臓器移植」という医療も、いつかは不要になることが望ましい、という視角は確認すべきことかもしれません。*8

とはいえ、いま、現在、臓器移植を待つ、求めている患者や家族はどうするのか。その一方で、脳死状態となってしまった人とその家族については、どう考えるのか。
どちらか一方しか見ずに単純明快な論理を構築することは簡単です。しかし視野を広げ、レシピエントサイド(移植を待つ患者側)とドナーサイド(臓器を提供する側)の双方の主張を調整すること、さらに「脳死」や「移植医療」が迎えている転換点であることを踏まえて将来の社会を構想すること、社会的な意思決定に携わる人々には、こうしたビジョンを提示することが求められているのではないかと思います。

今日午後の衆議院本会議は、全体でも45分程度のごくごく短いものでした。そこには「討論」と言えるものはありませんでした。これまでの審議だけで採決を迫られる国会議員の方々の苦悩は、「脳死臓器移植」問題を研究対象としてきた者にはよくわかるものです。だからこそ、選挙で選ばれた国会議員だからこそ、有権者に説明のできる理由をもって、意思決定に臨んでもらいたいと切に願う次第です。

*1:イスタンブール宣言」については、移植学会が公開している翻訳(PDF)を参照。「WHO(新)移植指針」の原文については、WHOの新しい移植指針についてのページ(英語)を参照。

*2:一応、確認しておきますが、こうした「臓器売買」によって移植を受ける人というのは、日本人に限られたことではありません。

*3:イスタンブール宣言」においては、とくに「原則2」があたります。また「WHO(新)移植指針」においては、「原則3」「原則10」「原則11」、とくに未成年者など弱者保護に関して「原則4」があたります。「イスタンブール宣言」を今回の「臓器移植法改正」の理由の一つとするのであれば、こうした「生体移植」の法制化や管理についても、着目されねばならないハズです。

*4:「移植ツーリズム」というのは、「イスタンブール宣言」では次のように定義されています。「移植のための渡航(Travel for transplantation)とは、臓器そのもの、ドナー、レシピエント、または移植医療の専門家が、臓器移植の目的のために国境を越えて移動することをいう。移植のための渡航に、臓器取引や移植商業主義の要素が含まれたり、あるいは、外国からの患者への臓器移植に用いられる資源(臓器、専門家、移植施設)のために自国民の移植医療の機会が減少したりする場合は、移植ツーリズム(transplant tourism)となる。」この定義からすると、日本から海外へと渡航して移植を受ける場合、それによって渡航先の国民の移植医療を受ける機会が減少するのであれば「移植ツーリズム」となります。ただし、イスタンブール宣言の英語原文を直訳すれば、「外国からの患者への臓器移植に用いられる資源(臓器、専門家、移植施設)のために、自国民への移植医療を提供する能力(country's ability)が減少する場合」です。能力(ability)が単純に数値化できるものかどうかは難しいところですが、日本から海外へと渡航して移植を受けることが「移植ツーリズム」に含まれるかどうかには、解釈の余地があるのかもしれません。

*5:WHO(新)移植指針そのものには、各国に「臓器提供の増加」を求める文言はありません。ただし、指針改定の経緯を記した事務局からの文書(A62/15)には、自給自足を達成することは困難ながら少しでも臓器の需要と供給のバランスを改善するための提案が挙げられています。

*6:WHO移植指針改定の経緯を記した事務局からの文書(A62/15)では、「将来に向けて」の提案として、移植を必要とするような疾病(disease)になることを減らすための予防や健康増進の必要性が指摘されています。

*7:テルモのプレスリリース、テルモ、世界初の磁気浮上型左心補助人工心臓 米国で臨床試験の第1症例目埋め込みを実施を参照。また日本国内については、テルモ、世界初の磁気浮上型左心補助人工心臓 日本で臨床試験を開始を参照。これらのプレスリリースへのリンクを含めて、人工心臓の歴史などが紹介されているテルモと補助人工心臓も参照。

*8:以前のエントリーで紹介した京極夏彦の小説『魍魎の匣』では、臓器のはたらきを全て人工的に代替しようとする場合に、装置が体内に収まりきらないということが、よく現れています。これは「人工臓器」をめぐる研究開発の困難かもしれません。